0.始まりの日

故郷に住んでいた頃の記憶はあまりない。
鮮明に覚えているのは、眩しいくらいの金髪と透き通るような碧眼を持つ彼の微笑みと音のない場所。
そして懐かしむように   けれど、どこか悲しむように   見せてくれた一枚の写真。
そこには四人の子どもと一人の女性が写っていた。

夜も明けぬうちに屋敷を連れ出されケテルブルク港から船に乗り込む。
連れ出した主を振り返ると寂しそうに笑いながら、
「またな」
と言って手を振っていた。
その言葉を、再会を信じて私はホドへと出発した。

到着を知らせる大きな汽笛では目を覚ました。
目を擦りながらのろのろと起き上がると、同室だった女性の一人が支度をしているのが目に入った。
窓から差し込む光に首を傾げながら、外の騒がしさにつられるようにも降りる準備を始めた。

マルクト帝国領、ホド島。
手渡された旅券が告げる行先と、港に建てられた看板とに相違がない事を確認して、は初めてその地に降り立った。

ふるさとであるケテルブルクを肉眼視する事はもう出来ない。
港と街が繋がっていて良かったと思いながら人の流れに逆らわずに歩みを進めた。
歩き続けて十数分、旅行者がまばらになりホドに住む人々との境い目が曖昧になったところで、は脇道に逸れた。
周囲の家からは朝の喧騒が漏れている。食事のいい匂いと楽しそうな声を抜けて、小高い丘へやってきた。
手頃な木を見つけて根元へ座り込む。暖かな風が前髪を揺らし、雲間から太陽が顔をのぞかせた。

ふと、静寂が訪れる。
途端、言い知れぬ何かが体の内側から込み上げてきた。
「・・怖い、さみしい・・・」
ぽつりと口からこぼれた想いが、目頭を熱くさせた。

ここには、助けてくれる兄はいない。

これからどうしたらいいんだろう。
誰一人として自分を知っている人がいない、守ってくれる人がいないこの場所で、本当に一人で生きていけるのだろうか。
頬を伝ったものが抱えた膝を濡らしていく。
「お兄ちゃん・・・さみしいよ・・・」
昨日までなら。
大好きな兄の名前を呼べばすぐに、大きくてあたたかな手で頭を撫でてもらえたのに。

唇をかみしめて震える体をきつく抱きしめたその時、着ていた外套のポケットに違和感を覚えた。
(なんだろう・・・何か入れていたっけ?)
ポケットを探って掴んだ小さなそれを見て、胸の奥が軋んだ。
それはケテルブルクを発つ時、兄から手渡された碧の髪飾りだった。

「これはな、俺達がまた会えるっていう約束の証だ。だから絶対なくすなよ。そしてこれは・・・誰にも見せちゃダメだ」
「こんなに綺麗なのに、どうして見せちゃいけないの?」
「それはな、俺とお前しか知らない秘密の約束だからだ」
秘密はバレちゃいけないだろ?   そう言って、彼はウインクをしてみせた。
「わかった!誰にも見せないよ。約束する!」

そんな会話をしたのはつい昨日の事なのに。 涙を掌で拭いながら、は髪飾りを見つめた。
いつでも自信満々に笑って見せる兄が、「またな」と再会の約束をしてくれた。
今は遠い、冷たい雪の国にいる兄を想っては目を伏せた。
なぜ自分が、ケテルブルクではなくホドにいるのか。
    その理由は、幼いながらもちゃんと理解していた。嫌になるほど聞かされてきた。

の兄はマルクト帝国の王位継承権を持つ人間だ。それは会った事のないもう一人の兄も同じで。
現皇帝である父が推進する軍事政策には賛成派も反対派も多く存在し、故に皇帝の失脚を画策するものは後を絶たない。
そして、王位継承者同士の諍いも絶える事を知らなかった。
が生まれる数年前に、母親が違う兄や姉は殺されている。
王位継承権の地位としては最も低いであろう自分にすら、派閥争いの矛先を向けられる事があった。

だから実兄であるピオニーはをホドへ逃がす計画を立て、実行に移した。
このオールドラントに生を受けてから3年と半分の妹に生き延びてほしいと、願ってくれたのだ。
そうして自分はここにいる。助けてもらった命を無駄にしたくはない。

「・・・まずは暮らせるとこを見つけなきゃ」

生きる、と自分で決めた。生きていてほしいと願ってくれている人のために。
伸びをして立ち上がる。もう涙は流れていない。
荷物はナイフ一本にあまり多くないガルドと、髪飾り。
あとはこの身一つだけ。

不安が消え去る事はない。寂しさはいつだって胸にある。
だけどそれでも前を見て歩く。
たとえ行く先が辛く悲しい、闇であろうとも。

約束をしたから。