1.新しい家族

ホドへ来てから二ヶ月が経っていた。朝、太陽の日差しで目が覚める事にもすっかり慣れてしまった。
与えられた部屋のベッドから起き上がって、一度伸びをする。
美味しそうな朝ご飯の匂いにわくわくしながらは身支度を整えた。

コンコン、とノックの音が響いては返事をする。
、もう起きた?」
開いた扉から顔をのぞかせた優しい声の主は、少し長めの桃花色の髪を一つに結んでいる。
触れたら壊れてしまいそうなほどに華奢で白い肌を持つ彼女の手にはマグカップが握られていた。
「うん。おはよう、お母さん」
「ふふ、おはよう。さ、顔洗ってきなさい」
はーい、と返事をしてはリビングを背に廊下を歩いていると前方から一人の男がやってきた。
背が高くがっしりとした頼もしい体つきは、ゆとりのある黒いシャツの上からでもよく分かるほど。
眼と同色の琥珀の髪の毛は短く切り揃えられている。
「おはよう、お父さん」
「おう、おはよう。もうすぐ飯だぞ、早く来いよ」
挨拶を交わしすれ違うその時に大きなその手でわしわしとの頭を撫でていった彼の手を見送り、は洗面所への扉に手をかけた。
この二人がホドについたばかりの自分を拾ってくれた恩人であり、義父と義母である。

二ヶ月前。
にぎやかな市場をスリに気をつけながらは一人で歩いていた。朝食を探して。
泣いてしまった後だからか、お腹が空いたという体の主張に耐えられなくなっていたのだ。
あまりないお金を使いすぎないように、と自分に言い聞かせながら食材屋を探していた。

一人の女性が食材を買い込んでいたのが見えた。
「全部で5000ガルド!どう?安いでしょう!なんたって、エンゲーブから取り寄せた新鮮なものばかりだからね」
新鮮な品と聞いてさりげなく品物を覗いたは愕然とした。

「まぁ!そんなに安くていいのですか?」
「ええ、もちろんですよ!貴女への特別大サービスです」
「ふふ、ありがとうございます。5000ガルドですよね?   はい、どうぞ」
「確かに。ま「お母さん!お父さんが呼んでたよ!早く行こうよっ」」
言うが早いか、5000ガルドをひったくったは、買わされそうになっていたお世辞にも品質が良いとは言えない食材を店主に押し付けて、女性の手を引いて駆け出した。
「おい!待て!」
怒った店主が後ろで叫んでいるのが聞こえたが、追いかけてくる事はなかった。

人通りの少なくなった市場の端で、はやっと立ち止まった。
未だ振りほどかれない右手を自分から離して、上がる息を落ち着かせながら女性の方を振り返った。
「あの・・・勝手なことしてごめんなさい!」
ばっと頭を下げる。
叱責に備えてつむった目は、いつまでも反応のない目の前の相手を伺うように開けられた。
女性はの目線に合わせるように、服の裾が地面につく事も気にせずかがんでくれていた。
「うーん・・・ごめんなさいね。私はあなたのお母さんじゃないわ。間違えてしまったかしら」
の謝罪を聞いていたのかいないのか、店主に騙されかけていた女性は困った顔をしてこちらを見つめていた。

「えっと・・・あなたがお母さんじゃないことは分かってます。あの場所を離れるためのとっさの嘘で・・・」
「あら、そうだったの!迷子じゃなくて良かったわ」
ぱぁっと表情が明るくなったその女性の笑顔は、思わず見とれてしまうほどに美しかった。
白くて細い指がの方へ伸びてきて、髪を、頬を撫でた。じんわりと温かいものが込み上げる。
その温度から逃げるようには再び頭を下げた。

「あの、さっきは・・・食材屋さんで勝手なことをしてごめんなさい。どう見てもその・・・騙されているようにしか見えなかったから」
「あら、私騙されてしまうところだったのね」
何とも緊張感のない声には二、三度瞬きをしたあと首を傾げそうになってしまった。
さ、顔を上げて。その声に素直に応じると、また。
「ふふ・・・助けてくれてありがとう」
優しい笑みが溢れていた。

なんで私は出会ったばかりの人の家で食事をご馳走になっているのだろう。
彼女との別れ際、のお腹が盛大に鳴ってしまったのが原因の一つではあるのだけれど。
お人よしの彼女が「お礼がしたいの!一緒に食材を選んでくれないかしら」なんて言うものだから。
改めて繋ぎ直された手は解けなくて、家にまで上がり込んでしまって今に至る。

「どう?おいしい?」
「はい、とてもおいしいです」
「お口に合って良かったわ。私の得意料理なのよ」
シーフードピザにチーズのサラダ、クラムチャウダーとデザートにはクリームパフェ。
少し早い昼食にしても量が多く、何より豪華でデザートまでついてくるなんて。
これがホドに住んでる人のスタンダードな食事だとしたら、なんて贅沢なのだろう。
クリームパフェに手を付けようとした時、ただいまという声と足音が耳に入った。

「おかえりなさい、ヴァネット」
「あぁ、ただいまエミリア。・・・そこの子どもは?」
「市場で私を助けてくれた子よ。名前はえぇと・・・聞いていなかったわ」
「初めまして。と言います。勝手に上がり込んでしまってすみません」
パフェスプーンを置いて、椅子から立ち上がりぺこりと頭を下げる。
にこにこと笑うエミリアと遠慮がちにこちらを見てくると名乗った子どもを見比べ、ヴァネットは腰に手を当てて短く息を吐いた。

「・・・ひとまず飯だな、腹減った」
「すぐに用意するわ。さ、も遠慮しないで食べてね。パフェも自信作なの」
キッチンで食事を温め直しながらどこか楽しそうにエミリアはに話しかけた。
リビングと玄関をつなぐ廊下からは水の音が聞こえている。
着替えたヴァネットが戻ってきたのはそれからすぐの事だった。

食後の紅茶がカップの半分くらいまで減った頃、ヴァネットは徐に口を開いた。
「さて。、君にいくつか聞きたいことがある」
「・・・はい」
琥珀色の目で真っすぐ見つめられる。
これから何を聞かれるのだろう。
何を聞かれたとしても答えられない事であることは間違いない。
テーブルの下で手を強く握り、次の言葉を待った。
「まず一つ。年齢は?」
「ND1997生まれ、3歳です」
「出身は?ホド生まれ・・・ではないな」
「・・・ケテルブルクから来ました」
は生来色白である。ケテルブルク出身という言葉は疑われないだろう。
兄とは違う肌の色に何故かと問えば、
は母上に似たんだよ。俺は親父に似たんだ」
と返ってきた事を思い出した。

「両親はケテルブルクに居るのか?」
「・・・いません。母上はわたしを産んだあとに亡くなったと聞いてます」
「父親や兄弟は?」
居ない、死んだ。と嘘を吐く事もできずは俯いて首を横に振った。
そうしてどのくらいの沈黙が流れただろう。
実際にはたった数十秒の事だったのかもしれないが、には酷く長く感じられた。
なんとかこの家から、この場から離れて生きていく術を見つけなければいけないが、この沈黙を破る方法を一つも思いつかないでいた。

「ねえ、ヴァネット?」
「・・・わかっているよ、エミリア」
穏やかなエミリアの声と、何かを諦めた様な、それでいて決意を含んだため息には恐る恐る顔を上げた。
エミリアは椅子に座っていたの横に膝をつき、目線の高さを合わせて手を握った。
驚きに目を見開いたに微笑みかけながら口を開く。

「貴女さえ良かったら私たちと一緒に暮らさない?」

は今聞こえてきた言葉を正確に理解しようと懸命に頭を働かせた。
二、三度瞬きをしてみてもの手を握って微笑むエミリアの顔は崩れずにいる。
混乱する頭でテーブルの正面に座っているヴァネットを見ると、彼は一度頷いて。
「エミリアは一度言い出したら聞かないんだ。・・・まあ俺も納得しているから安心していいぞ」

一緒に暮らさないか、という提案は聞き間違いではなかったようだ。
そしてその選択権は自分にある。
にとっては願ってもない申し出だった。
二つ返事で承諾してしまいたい気持ちと、漠然とした不安が綯い交ぜになる。
自然と俯き瞼の裏に描いたのは、再会を約束した兄の姿だった。
は一つ深呼吸をし、今度はしっかりと顔を上げて椅子から立ち上がった。

「これから、どうぞよろしくお願いします!」

すべてを語っていない事など、きっと分かっていたのだろうと思う。
それでも何も言わずに、彼らは養子として自分を迎え入れてくれた。
その出会いが、選び取った選択肢の結末が、あの悲劇を生む事になると知っていたら私はどうしていただろう。
まだ何も知らなかった過去の自分は、ただただ彼らに感謝していたのだ。

その日から、“”として生きる事になった。