5.左眼

「ゆめ・・・か」
いつものベッドの上では目を覚ました。
カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。
なんだか凄く衝撃的な夢を見た気がしたが、何も思い出せなかった。夢を見るなんていつぶりだろうと思いながらパジャマを脱いで、服に着替える。

必要最低限の物しか置いていない自室は、ケテルブルクにいた頃に比べてずいぶん閑散としていた。
(それにしても思い出せないなぁ。なんだろう・・・思い出さなきゃいけないような気はするのに)
窓から見えるのは今日も綺麗な青空なのに、はいまいち気分が乗らなかった。

「なに、これ」
鏡に映っているのはいつもと同じ自分の顔だったけれど、決定的に違うところがあった。
それは、左眼。
昨日までは紺碧の中にいる自分が見つめ返していたのに、今は見知らぬものに占領されている。左眼の中に細かく刻み込まれたそれは譜陣によく似ていたけれど、今まで読んできたたくさんの本の中ですら見た事のないものだった。

? もう朝ご飯の時間よー   どうかしたの?」
「お母さん・・・。なんか、目が変になった」
「目? ちょっと見せてね」
言われたとおり左眼に当てていた手を退かし、養母に向き直る。
エミリアはの左眼を覗き込んだ途端、大きく目を見開き口元を手で覆い隠した。

「これ・・・いつから?」
「わからないけど、たぶん今朝だと思う。起きて鏡を見たらこうなってたことに気付いたから」
「そう・・・。とりあえず朝ご飯を食べましょうか。それから少しヴァネットと相談するわ」
「うん。お腹空いた」

のその言葉にエミリアは優しく微笑んだ。
しかしその顔はすぐに曇る。もし、の眼に現れたものが自分の予想通りのモノだったとしたら   
朝食が終わり自室に戻っていたが二人に呼ばれたのは、それから一時間後の事だった。

家の地下室。
普段は譜術の練習場として使っているその場所で、この左眼の調査をするらしい。
ヴァネットとエミリアの表情が硬い事に気づいたは、これから起こるであろう何かに身構える。同時にこの左眼に描かれたものに対する不安が募った。

「じゃあ、。これから私たちの言う通りにしてね」
「う、ん・・・わかった」
「最初はこれを相手に剣技と体技を放て。音素を使った技なら何でもいい」

そう指で示された先にいたのは、いつも練習で使っている人型の人形だった。
普段なら外で行う剣術と体術の稽古を地下室でやる事に違和感を覚えたが、雑念を振り払うように頭を軽く振って人形を見据える。
腰に差した鞘から剣を抜き、すぅ、と息を一つ吸い込む。
足元に火の FOF(フィールド・オブ・フォニムス) が浮かび上がる。

「魔王炎撃破っ!」
魔神剣の派生技を繰り出す。刃に音素を乗せ、横一閃に薙ぎ払う。そこまでは、良かった。
(あれ? 今・・・)
剣を鞘に収め自分の体内の音素の流れを追ってみる。だが、たった今感じた違和感は既に消え去ってしまっていては首を捻った。

が首を捻っている時、二人も顔を見合わせてしばし沈黙していた。
胴体が真っ二つに斬られ燃やされた人形を隅に寄せる。ヴァネットは新しい人形を置き直してに指示を出した。
「・・・今度は、体技を」
「あっ、はい!」
剣が邪魔にならない事を確認し、準備ができたとエミリアに向かって頷く。
直後、水のFOFが浮かんだ。

「鷹氷落爆蹴っ!」
掌底からの蹴り二発で人形を空中に浮かせ、一気に跳躍しながら体内に取り込んだFOFを右脚に集中させる。身体を捻って左脚で回し蹴りを一発かました後、勢いそのまま振り上げた右脚で踵落としを繰り出した。
圧縮させた 第四音素(フォースフォニム) が弾ける時、氷が砕け散るように見えるため鷹氷落瀑蹴と命名されているこの技は、つい先日やっとの思いで修得したばかりのものだった。

(やっぱりなんか変だ。音素の集まり方がおかしい・・・)
技がきれいに決まった事よりも、砕け散った人形と深く抉られた床、そして今なお技の余韻として残っている大きな氷の結晶がの顔を青褪めさせた。

「今度は・・・譜術ね。出来る?」
「・・・はい、出来ます」
そうが答えるのを聞いて、ヴァネットは新しい人形を三人から十分離れたところに設置した。エミリアはヴァネットの行動を見、体内で自身の音素を高めながら口を開いた。
「術は、そうね・・・ネガティブゲイトがいいわ。使い慣れているでしょう?」
「はい」

一つ、深呼吸をしてから 第一音素(ファーストフォニム) を高めにかかる。
が集中している様子を観察しながらエミリアは譜歌をうたう。数秒後には、ヴァネットとエミリアを守る強固なフォースフィールドが完成した。
詠唱を始めてすぐ、自分を取り巻く音素の動きが昨日までとは違う事にはっきりと気付いたが、は構わずに詠唱を続ける。集中力の乱れば音素の乱れに繋がり、音素の暴走が術者の命取りになる事は心得ていた。
   ネガティブゲイト」
巨大な球体と化した第一音素の塊が、標的である人形に容赦なく襲い掛かる。

自分で放った譜術は術者本人には何ら影響を与えない。
しかし、他人は別だ。いくら念入りに 味方識別(マーキング) をして術者の視界に入れていたとしても、影響を受けない保証は無い。
そんな譜術の基本中の基本がどれほど恐ろしい事なのか、肌で理解するには十分すぎるほどの威力でのネガティブゲイトは発動した。そこにあったはずの人形は地面に屑となって散っていて、譜術で十分強化されている壁には亀裂が走っていた。

「フォースフィールドをしていて良かったわ・・・」
独り言のように呟かれた言葉をはしっかりと聞いていた。
その術は範囲内にいる味方識別をした人間のダメージを、無効化するものだからである。つまり術者が倒れたり術の効果が切れない限り、外部からの攻撃の影響は一切ない最強ともいえる防御策だった。

それにしてもなんで音素の量を思った通りに操れないんだろう。
今まで散々稽古を積んできて音素の流れを感じ取れるようになったのに。こんな風に音素の取り込み量を制御できなくなる事なんて無かったのに。

「稽古不足なのかなぁ・・・」
両手を握り締め呟く。それとも他に理由があるのだろうか。
。もう一度、眼を見せてくれないかしら?」
しょげているに向かって、エミリアは声を掛ける。
こちら小走りで寄ってきたの頭を軽く撫でると、身を屈めて左眼を覗き込んだ。緩く明滅を繰り返す左眼の譜陣を見つめ、エミリアは重い口を開く。

「やっぱりこの眼に描かれている譜陣が音素の過集中の原因だと思うわ。、ゆっくり音素の流れを追ってみて」
「はい・・・」
エミリアに促されるまま言われた通りに集中力を高める。両目を閉じて体内のフォンスロットを一つずつなぞり始めた。

「何か、違和感を感じないかしら?」
「・・・・・・今まで感じなかった音素が、在ります。全身に行き渡っていて一番強く集まってるのは・・・左眼?」
「今まで感じなかった音素? どういうことだ?」
「えっと、なんかこう・・・第七音素とも他の音素とも違って・・・体験したことないような」
「突然変異・・・? ううん、もしかしたら眠っていた力が目覚めたのかもしれないわ」

眠っていた力?
左右で生まれつき色が違うこの目が、力の源だという事だろうか。
二人の眼差しは、口調は真剣そのもので。は縋るように胸元に隠した髪飾りを服の上から握りしめた。

「それは君がこの前言ってた目覚めてない能力のことか? それがの左眼に描かれた譜陣のせいで引き出された?」
「ええ・・・ただこれは自然発生したものとしか考えられないわ。人為的に自分の中に音素を取り込む技術はマルクトでは禁書扱いのはずよ。譜眼の成功者も著者以外居ないと言われているし、それに」
ヴァネットは少しだけ首を傾げて言葉を切ったエミリアの先を促す。
「昨夜、音素の変動や出現を何も感知しなかったの。もし、この家やこの家に向けて人為的に譜術が使われたならわかるはずだもの」
エミリアは何故か泣きそうな顔をしている。
そんな悲しい顔をさせてしまった原因が自分である事に、は酷く傷ついた。

「どういうこと? この力は、おかしいの?」
の潜在能力がその左眼によって引き出されたってことだ。未知のものがすなわち悪いという訳ではないが、それもまず制御できてからの話だからな」
「今の状態のまま、軍に、他の人に発見されれば危険なものとして監視されることになるでしょうね。あるいは実験材料としてグランコクマに連れていかれるかもしれないわ」

この力を制御できなければ、監視されて、グランコクマで実験材料にされる。
マルクトの首都グランコクマ。現皇帝カール五世、すなわちの実父が居るところ。
が生後数日で離れた、産まれた場所。

「だったら! だったら、制御出来ればいいんだよね?」
「まあそれはそうなんだが・・・が想像している以上に、きっと大変だぞ」
「それはわかってる!・・・つもりです」
   。手のひらにその力を集められるか、やってみてくれる?」
「おい、エミリア。音素が暴走したらどうするんだ? まだ何もわかっていないんだぞ!」
ヴァネットは諌めるように強く言ったが、エミリアは譲らなかった。
もしかしたら制御の手助けが出来るかもしれないの、と。

「父さん、大丈夫です。やってみせます」
不安そうなヴァネットの目を見つめながらは自分に言い聞かせるように声を発した。
グランコクマに行くのは、嫌だ。
一つ深呼吸をして目を閉じ、全神経を体の内側へと集中させる。
体内に新しく現れた音素を一つずつなぞって、ゆっくりと。だが確実に手のひらに集める。驚く事にその音素はの意思に素直に従ってくれた。

しばらくして目を開けると、音素は右手の上で輝いていた。
「これが音素・・・」
小さく呟くと、それに呼応するかのように少しだけ輝きが大きくなる。同時に左眼に刻まれた譜陣が光を増したように感じた。
直後、左眼が脈打つのを感じて反射的に目を左手で覆った。

っ! 大丈夫か?」
「すみません・・・大丈夫です」
倒れてもいいように体を支えてくれたヴァネットに痛みはない事を告げて、ゆっくりと左手を外す。相変わらずその音素は深海のような色で手のひらの中にある。
が出現させた音素を注意深く観察していたエミリアは、布のような物を取り出し何かを刻み始めた。
の手のひらにそっと置くと、たちまち蒼い音素は消えた。自分の体内に戻っていったと言う方が正しいのかもしれないが。

「今の術は何だ?」
家に代々伝わってきた秘術なの。特定の音素の動きを抑制するものなのだけれど、まさかあの 封印術(アンチフォンスロット) を使うわけにもいかないでしょう? 理由はわからないけれどユリアの・・・第七音素を嫌っているみたいだから」
「第七音素を嫌う・・・? まあ抑え込む方法は一つ判明したとして、これで制御したことにはならないな?」
「ええ、その通りよ。だから自分で制御出来るようになるまで少しでも長く時間を作るしか私にはできないの。   

名前を呼ばれ顔を上げると辛そうなエミリアと目が合った。
「ごめんなさい。これからあなたに第七音素で術をかけるのだけれど、少し拒絶反応が出ると思うの。それと、これからは右目だけで生活していくことになるわ」
突然告げられたその言葉に上手く返事ができず、は黙ってしまった。
「エミリア・・・どうにかならないのか?」
「・・・ごめんなさい。今はこれ以上してあげられることはないの」
「ううん、大丈夫。音素が暴走することの方が怖いから、片目でも大丈夫」

それ以上、悲しい、辛そうな顔を二人にさせたくなくては無理に明るい声を出して、笑顔を作った。
これはただの強がりで。術による拒絶反応も、片目だけの生活も想像ができないから。
音素が暴走して取り返しのつかない事態に陥る恐怖だけを描いて、それだけは避けたいのだと強く誓う。

「・・・じゃあ目を閉じて。音素を左眼に集めるようイメージしていて」
「はい」
が音素を高め始めたのを見て、エミリアは握ったままの布に再び譜術を刻んでいく。
第七音素で、先ほどの手のひらに具現化されたその力だけを封じるように。この力が、彼女の助けになりますようにと強く、強く念じながらエミリアは術を構成し終えた。
僅かに煌めく布をヴァネットに手渡し、の左眼を覆うように巻いてほしいと頼んだ。エミリアは最後の仕上げのため、再度術式を組み上げていく。

「お母さん」
ふと、の声が耳に届き、詠唱を一時中断する。
「謝らなくていいからね。私が決めたことだから、謝らないで」

どうしたの?という問いかけの前にの口から紡がれた言葉に、エミリアは唇を噛んだ。
ヴァネットの手が肩に置かれるのを感じて、頭を左右に振る。
大切で愛おしい娘に少し微笑んでから、真剣な眼差しでを見つめる。

「・・・行くわね、
「いつでも大丈夫です」
その声に、中断していた詠唱を一気に紡ぎあげる。次の瞬間、の左眼とそれを覆う布が蒼白い光に包まれた。
突然の頭が割れるような衝撃には思わず膝をついた。閉じた右目から涙が溢れ出す。
さっきまで大人しかった音素が苦しそうに暴れている。音素が制御出来なくなる。

、しっかりしろ! 自分でコントロールするんだ。音素に支配されるな!」

誰かの声もほとんど聞き取れない。
下唇を思い切り噛んでみても、左腕に思い切り爪を立ててみても痛みは一向に引かない。全身のフォンスロットが悲鳴を上げているようだった。

今、この暴走を止められなかったら二人はどうなる?
痛い。
巻き込みたくない。
痛い、痛い。
殺したくない。
痛い、痛い痛い痛い。
大切なんだ。傷つけたくないんだ。
だから   

は意識を手放した。