6.預言と決意
「ゆめ・・・?」
はいつものベッドで目を覚ました。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。
部屋を見回す。必要最低限の物しか置いていない自室は、ケテルブルクにいた頃に比べてずいぶん閑散としていた。
それはいつも通りの風景。その中にある決定的な違和感に触れてため息を吐く。
「やっぱり夢じゃない、か」
右目の瞼を下ろすと視界には何も映らなかった。
ベッドから這い出て服に着替え、部屋の端に置かれた鏡に全身を映す。昨日まで確かにあったはずのくすんだ青色は、今は真白の包帯で閉ざされている。
ぼんやりとその色を見つめていると何故かケテルブルクの雪景色を思い出した。
コンコン。
控えめなノックが部屋に響く。
返事をしようとして思いとどまり、扉に近づく。一呼吸だけ置いてはそれに手をかけた。
「「!」」
二つの声が重なって鼓膜に心地よい音が響く。
瞬間、思わず二人に飛びついていた。
「良かった・・・生きてた・・・」
震える声と共に涙が頬を伝う。
初めて体験した音素の暴走。制御しきれない量の音素が暴れまわる痛みに、エミリアの術式に抗おうとする力に、そして何より大切な人達を失くしていたかもしれない恐怖に、今更ながら体が震えていた。
声をあげて泣くのはいつぶりだろう。ヴァネットとエミリアはが泣き止むまで頭を撫でてくれていた。
朝食後、は丸一日眠ったままだったと聞かされた。
気を失って倒れ込んだ後、蒼白い光に包まれたの体は徐々にその光が収束していき音素の暴走が止まったのだという。
外傷と音素の乱れがない事を確認しの部屋まで運んだものの、今朝目を覚ますまでピクリとも動かず相当心配したらしい。
そして二人は今後について話を始めた。
まずは、音素の制御が出来るようになるまで包帯は外さない事。
第七音素は身体に悪影響を及ぼす可能性が非常に高い事から、
そして、術技を扱う際の音素量の調節をサポートしてくれるという深緑色のピアスを貰った。
エミリアによれば正確な数値は計測しなければ不明であるものの、一般に優秀とされる譜術士の数十倍もの音素をは体内に保有しているというのだ。
正しく訓練を積んでいけばいずれは桁違いの威力を持った譜術を放てるようになるらしいが、固有の音素が体内にある事が判明した今、体内で持て余している音素がどのように作用するか分からない。
素養のある第一から第五までの音素を暴走させず、意図した通りに扱えるよう訓練を続ける事が大前提ではあるが、万が一の音素暴走に備えての事だという。
エミリアの短い詠唱の後、そのピアスはの左耳に吸いつくように収まった。
午後二時。
心配そうな顔の二人を家に残したまま、はいつもの場所に来ていた。
音素暴走と収束の影響で丸一日眠り続けていたのだ。彼らの心配は当然だった。
それでもは片目で生活していく事に早く慣れたいのだと半ば強引に押し切る形で、夕食前には戻る約束をして家を出た。
ここに到着するまでに何度か人や建物にぶつかりはしたものの、徐々に距離感や平衡感覚が掴めてきているような気がする。
だが、自分で認識している以上に右眼は酷使されていたようで、流石に疲れが滲み出る。
木の根元に座り込んで静かに目を閉じると、どれだけ視覚からの情報に頼って生活していたかが身に染みるようだった。
耳を澄ませば、全身で感じれば、いろんな声と音が聴こえてくる。ぼんやりとそれぞれに違う音素の振動を感じる。
「綺麗だなあ・・・」
ぽつりと零した音は誰に拾われるでもなく風に溶けていく。
しばらく自然に身を預けていると、楽しそうな話し声が聴こえてきた。目を開けて声のする方に顔を向けると見慣れた彼らが歩いてくるのが見えた。
「あっ、だぁ!」
遠くにを見つけたガイは嬉しそうに手を振って走り出す。
ヴァンもそれに倣って小走りになった。
「・・・っ、どうしたの?その目!!」
がいる場所まで笑顔で駆けてきたガイは、左眼を包帯で覆ったの姿を見て一瞬言葉を詰まらせた。
恐怖と動揺と不安と心配が一気に押し寄せたような複雑な表情のガイを見て、は思わず苦笑した。
「えーっと、ちょっとね。痛くないから心配しないで」
「そうなのか?何をしたんだか知らないが気をつけろよ」
「うん。ガイもヴァンもありがとう」
おろおろするガイを宥めながら心配してくれるヴァンにも笑顔を向けると、ヴァンも笑顔を向けてくれる。
その表情を見て、友達に言えない秘密が出来るという事は自分の心が苦しくなる事なのだと気づいた。いつか本当の事を話せる日が来ればいいなと、小さく小さくため息を吐いた。
「僕、の目キレイで好きだったのにな」
「・・・右と左で目の色が違うんだよ?変とか気持ち悪いとか思わないの?」
心底残念そうに零したガイの言葉には自分の耳を疑った。
兄以外にこの目の色を褒めてくれた人は養父母だけで、ケテルブルクの屋敷で生活を共にしていた使用人たちでさえの左右の目を見比べては怪訝な顔をしていたのだ。
もちろんそんな事は口に出せないけれど、驚きを隠せずに問いかければガイはきょとんとした顔で首を横に振る。
「全然!だってとってもキレイだもん。ね、ヴァンもそう思うでしょ?」
「ああ、綺麗な色だったよ。漆黒も紺碧もどちらもな」
ほらねー、と得意げにガイは笑っている。
ずっと兄のような広く抜けた青空の様な瞳の色に憧れていたのに。
「・・・ありがとう」
二人の言葉がとても嬉しくて、何故か無性に泣きたくなった。
いつもと同じ楽しい時間は、丘の下からやってきた青色によって唐突に終わりを告げた。
「ここに居たのか・・・。ほら立て!」
白衣を着たマルクトの軍人達はやガイには目もくれず、ヴァンの元へ真っすぐに歩いてきた。少し苛立った様子の彼らは腕を掴んで無理やり連れて行こうとする。
ヴァンは僅かに抵抗する素振りを見せたような気がしたが、小さなため息と共に立ち上がった。
突然の事に呆気に取られたは微塵も動けず、それはガイも同じ様だった。
状況が理解できない。
それでも何故かはこの光景を知っている気がした。
「ヴァン・・・どこに行くの?」
「、悪いがガイラルディア様を屋敷まで送り届けてくれ。頼んだぞ」
「いいけど、でも・・・ヴァンは?一緒に帰らないの?」
「僕は・・・」
ヴァンが言葉に詰まる姿を目にするのは初めてだった。それは大きな違和感だったのに、は今の状況を打開する術を見つけられずにいた。
地面を向いていた彼の視線がに向く。僅かに噛んだ下唇が動く前にマルクトの軍人の一人がヴァンの腕を強く引いた。
「おい、手間をかけさせるな!」
「・・・すみません。二人とも、また明日」
「ちょっと待って・・・ヴァンっ!」
その声に返事はなく、彼らの姿が遠くなっていくのを呆然と見送る事しかできなかった。
ガイはにくっついていて離れようとしない。自分より少し低い位置にある金色の髪を撫でると、ガイは不安そうな目でこちらを見た。
怯えた目をしたガイをどうにか落ち着かせたいと思ったけれど、いつもより心臓の音がうるさい事に気がついて諦めた。
「・・・帰ろっか」
辺りに静けさが戻ってから、ガイに向かってそう呟いた。
こくん、と頷くガイを見ては改めて手を差し出した。
の右腕にくっついていたガイは差し出された手と右腕を見比べて、自分の右手をの左手に重ねた。
夕陽が周囲を赤く染め上げる。少しずつ夜が運ばれてくるこの時間、いつも手を握ってくれるのはヴァンだった。
「二人だと寂しいね・・・」
の小さな声に顔を上げる。ガイは初めて自分の足元しか見ていなかった事に気がついた。
はガイの視線に気づくと微笑んでくれたけれど。
一瞬見えた気がした悲しそうな表情にガイは何も言えず、ただ強く手を握り返した。
無事にガイを屋敷まで送り届けたは、一目散に家へと帰っていった。
普段なら気にもかけない街の色。それなのに、今日はやけにマルクトカラーが目についたた。
養父母の前では努めていつも通りに振る舞った。
夕食はとても美味しかったけれど沈んだ心は晴れないまま、は自室のベッドで横になっていた。
なんで彼らはヴァンを連れて行ったんだろう。白衣を着ていたという事は彼らは研究者なのだろうか。
なんでヴァンは抵抗しなかったんだろう。あれはヴァンにとって初めての出来事ではないのだろうか。
マルクト帝国軍はマルクト帝国の現皇帝、カール五世の指揮下にあるはず。
彼の命令でヴァンが何かを強いられているのであれば、自分に関係のないところで下された命とは言えど胸が締めつけられる思いだった。
会った事も父として名前を呼んだ事もないけれど、彼はの実父だ。
大切な友達を、よりにもよって自分の父親が苦しめているかもしれないのであれば、それはとても許しがたい事だった。
大きなため息を吐いて寝返りを打ち、仰向けになる。
天井に取りつけられている
「ヴァンを連れて行こうとしたマルクトの軍人達・・・」
今日の出来事は今日初めて遭遇した出来事だったのだから、知っているはずがないのに。
ヴァンが連れていかれた時の光景をは視た記憶があった。
昨日、エミリアの術式が組み込まれた布が左眼を覆った時、耐えがたい苦痛の中で映し出されたいくつもの光景。
懸命に思い出そうとしても何一つ蘇らないのに、その中に確かにヴァンは居たのだ。
に
が扱える音素は、
そして、暫定的ではあるものの固有の音素であると思われる左眼に宿った蒼の光。
もし、預言士と同じ方法ではないとしても未来を視る力があるのだとすれば、固有の音素が原因である可能性が最も高い。
「こんなの、ただの偶然だよ」
「可笑しなヒト。本当は偶然じゃないことくらいわかっているんでしょう?」
吐き捨てるように呟いた言葉に間髪入れず声が返る。
それに驚いてベッドから跳ね起きると、の足元に一人の少女が座っていた。
蒼白い光を纏うその少女はくすくすと笑っている。
真っすぐにを見つめるその目は、の左眼と同じ紺碧色をしていた。
誰、と問いかけるのがきっと正しい。だけどその姿はあまりにも見慣れたものだったから、は僅かに震える手で胸元の髪飾りを握り締めた。
「あなたの中に在るその音素は、未来を視る力がある」
「・・・未来を、預言を詠めるのは第七音素だけだ」
「今まではね。あなたの中の音素の存在に気づいているのは、あなたとエミリアとヴァネットだけ。未来が視えることを知っているのは、あなただけ」
楽しそうな笑みを浮かべたまま、少女はベッドの上で膝を抱えて長い髪を耳にかけた。
内緒話をするように声を潜めて言葉を紡ぐ。
「でもね、その音素はまだ生まれたばかり。だから音素を宿すあなたに依存しなければ生きられないの」
「・・・どういう意味」
「そのままの意味よ。未来を視る力を使うも棄てるもあなたの心次第。制御出来るか出来ないかも、すべてね」
未だに唇に笑みを引いたままの少女の言葉と今日の出来事だけでは、自分に未来を視る力があると断定する事は出来ない。
断定する事は出来ないけれど少女の言う事は正しいのだと解ってしまって、それ以上にそんな力など欲しくないと強く思った。
「あなたが望まない出来事が目の前で起こった時も、後悔しない? 未来を視ていれば救えたのにって」
「・・・しないよ。どんな未来になったとしても、どんなに苦しんだとしても自分の意志で選び取ったものだって誇れないんじゃ生きている意味がない」
少女へ向けた声は、震えていなかっただろうか。
髪飾りを握る手は、これからも私を支えてくれるだろうか。
この望みは、いつまでも揺らがずにいてくれるだろうか。
湧き上がる不安を押し殺すように、は目の前の少女を半ば睨むように見つめ返す。
少女は少しだけ目を見開いて、それから声を上げて笑いながら立ち上がった。ベッドのスプリングを軋ませながらの手元に膝をついてじっと顔を覗き込み、それからゆっくりと言葉を紡いだ。
「その言葉忘れないでね」
「何が視えたとしても、それはヒトが選び取る可能性の一つに過ぎないのだから」
少女はの頬を撫でるように指先を滑らせる。
少女が放つ色とは対照的に柔らかな温もりがの左耳のピアスに辿り着くと、少女は小さな声で何かを呟いた。
それはとても小さなため息に似た音だったけれど、意識がぼんやりとし始めたの耳には届かなかった。
唐突に訪れた眠気によってはこの邂逅の終わりを悟る。
相変わらず楽しそうに笑う少女がの左眼に触れたのとほぼ同時に、は意識を手放した。
夢の中で知らない誰かが泣いていた。
無力さを嘆き、
ごめんなさいと肩を震わせ、
憎しみに剣を振るい、
失くしたくないと唇を噛み締め、
すべてを賭けて前だけを見ている誰かがいた。
「これがわたしの望みだ」と、知らない誰かが呟いた。