7.ホド戦争

ND2002 イフリートデーカン・ローレライ・41の日

「逃げなさい」
その言葉に背く事なく、は落ち合う事を約束したその場所を目指していた。悲鳴と金属が擦れる音と爆発音が街中に響き渡り、青い海と萌える木々と白の街並みが少しずつ紅色に呑まれていく。
逃げ惑う人々の流れに逆行するは、行く先々の血だまりに目を向ける余裕すらなかった。
どれくらい走り続けていたのかは分からない。ふと流れていく景色の中にマルクトカラーの大きな建物を見つけたは思わず足を止めていた。
直後、足元に大きな譜陣が展開される。その中心はではなかったから流れ弾のようなものなのだろう。
空中で第三音素が雷の矢を形成し終える前には横に飛んで譜術の有効範囲から逃れる。
立て続けに起きる爆発音が戦場との距離を物語っていた。
一瞬の迷いの後、は建物に向かって走り出した。

「そろそろ引き上げるぞ。キムラスカの奴らはもうすぐそこまで来ている」
「ああ、わかっている。・・・よし、起動まで二十分切ったな。行くか」
「それにしてもあの被験者、軍人でもないのに可哀想なことだな」
「・・・上からの命令だ、仕方ないさ」

コツコツと響く足音が完全に消えるまで辛抱強く待ってから、は物陰から這い出た。
立派な門構えに建てられた看板には「マルクト帝国譜術・譜業研究所」と記されていたが、関係者以外立ち入り禁止の標識以外には何の情報も得られず。
重々しい扉も簡易な施錠がされているのみで見張りの兵士さえおらず、は簡単に潜入する事ができた。
人の気配が少ない施設の中を警戒しながら進んだ先で聞こえてきた先ほどの会話。
まだ誰かがこの建物の中にいる。そして、聞き間違いでなければ軍人ではない誰かがここでマルクトのための犠牲となる。

「お邪魔しまぁす」
ここに居ても自国の兵士に助けてもらえない事は明らかだった。
すぐにでも来た道を引き返して約束の場所へ向かうべきだと解っていた。
それでもこの建物を見つけてしまった時から、嫌な想像が頭から離れない。思い過ごしであってほしいと願いながらはいくつもの扉を開けていった。

「なに、これ・・・」
あまりにも巨大な円卓とそれらを上下に支える太い柱。天井と床の間にぽっかりと空いた空間には、いくつもの赤い光が刺さっていた。
低く唸るモーター音。鈍く光る数々のモニター。静かにカウントダウンを続ける無機質な数字。棚や引き出しに入りきらなかった様子の 音譜盤(フォンディスク) と分厚いファイルが其処彼処に山を形成している。
冷たい威圧感を放つ巨大な音機関を目の当たりにしたは恐怖で言葉を失っていた。
ふらふらとモニターに繋がれた操作盤の前に立つ。
残り時間を示す数字がゼロに向かって進んでいるのを見て、は目の前にあるスイッチを手当たり次第に押していった。

突然、ビーッ!!というエラー音が部屋に鳴り響いた。驚いて後退った左足が音譜盤を踏んで滑って、尻もちをつく。
「深刻なエラー。超振動発生装置が緊急停止しました。起動時間がリセットされます」
見上げたモニターに映った文字を読み上げて、声が震えている事に気がつく。立ち上がるために床についた右手にも上手く力が入らない。
振り返って見上げた音機関からは赤い光が消えていた。
その辺にあったイスと操作盤を踏み台にして覗き込んだ装置の上に横たわっていたのは。

「ヴァン!!」
マロンペーストの髪の少年は間違いようもなくの友人だった。
装置の上に飛び移り、手足を固定していた枷と管を剣で無理やり断ち切っていると、未だエラー音が鳴りやまぬその部屋で小さな呻き声が聞こえた。

「ヴァン! 早く起きて!! ヴァン!」
「・・・っ、誰だ・・・?」
「私だよ! だよ! 急いでここから逃げよう!」
ヴァンの覚醒を促すように乱暴に肩を揺する。
頭を押さえながら起き上がったヴァンの驚きに満ちた表情と視線が交わった事を確認し、は安堵した。

「なんでがここに・・・?」
「質問には後で答えるから! とりあえずここから逃げようっ!」
言うが早いか音機関から飛び降りたは、素早く通路へ続く扉まで走って左右を見回し、足音がしないか耳を澄ました。幸いにも、エラー音は通路にはあまり響いていないようだった。
すぐにヴァンの元へ引き返すと彼は装置から降りて剣を身に着けるところだった。
「少し走りたいんだけど、大丈夫?走れる?」
「ああ、僕は大丈夫だ。   行こう」

研究所からの脱出に成功した二人は物陰に隠れて息を潜めながら、体力の回復を図っていた。
の目的地は目と鼻の先にありもうすぐ待ち合わせの時間になるはずだったが、ヴァンもも疲労から足が震えてまともに走れなくなっていたからだ。
ポケットに入れていたミックスグミをかじって飲み込めば体力の回復を実感する。ヴァンも咀嚼し終えた事を確認してからは口を開いた。

「今日はガイの誕生日だよね」
「・・・ああ、そうだな」
「5歳の誕生日パーティーにヴァンも招待されてたよね」
「そうだな」
「ヴァンはなんであの場所にいたの?超振動発生装置って何?」
が質問を重ねるとヴァンの瞳が初めて揺れた。苦しそうに眉根を寄せて自嘲的に笑う。

「あそこはフォミクリーという技術を研究している施設だ。僕はずっと第七音素の実験に付き合わされていた」
「フォミクリー? 実験?」
「フォミクリーはモノを複製する技術らしい。僕は・・・第七音素を使った人体実験に選ばれた被験者なんだ。今日は急に招集がかかって、誕生日パーティーには参加出来なくなったんだけど」

それどころじゃないみたいだな、とヴァンは小さく呟いて空を見上げた。も同じように空を見上げる。
フォミクリーの研究施設で第七音素を使った人体実験。
あの日、マルクトの軍人がヴァンを連れて行った日も同じように実験が行われていたのだろう。

「・・・ごめん」
?」
「私、何も知らなかった。ヴァンが苦しんでることに気づけなかった。今まで助けてあげられなかった。ごめんなさい」
ヴァンを、大切な友達を苦しめているのが実父、マルクト帝国現皇帝のカール五世である事には怒りと悲しみを覚えた。
次いで、何も知ろうとしなかった自分自身にひどく腹が立ち、悔しさが込み上げる。
謝罪は無意味だ。伝えた側だけが楽になる言葉だ。その証拠にヴァンは困った顔をしている。

「・・・から」
「え?」
「私が守るから。   マルクトの奴らなんかにヴァンは渡さない」
ヴァンだけが苦しんでいいはずがない。ヴァンが犠牲になるなんて嫌だ。
だって、ガイとヴァンは初めてできた大切な友達なんだ。

「行こう。向こうでお父さんとお母さんが待ってる」
腰に剣が下げられている事を確認しては立ち上がる。周囲の様子を窺ってからヴァンの手を引いて立ち上がらせると、は歩き出した。
声が震えていたせいだろうか。ヴァンの右手を強く握り締めると頭に手のひら一つ分の重さが乗せられた。
涙なんて流れていないのに、は目元を何度も指で拭った。

「ここが待ち合わせ場所なのか?」
「うん。迎えに行くからここに居てって」

二人はいつもの遊び場のすぐ近くにある白い墓標の前に立っていた。
ここがユリアの墓だと教えられたのはいつだっただろうか。
嫌でも聞こえてくる戦火の音も地響きも忘れさせるような静謐さが、の心に少しの余裕を与えてくれた。
戦場は近い。それでもエミリアとヴァネットがまだ来ていないなら待つしかない。
剣の柄を確かめるように何度も握る。ヴァンとはそれぞれ木の陰に隠れながら辺りを警戒していた。

「母さんは無事かな・・・」
「ミリアさん? ミリアさんもガイの誕生日パーティーに招待されてたよね?」
「ああ。だけど僕が今日研究施設に呼ばれたから、母さんもパーティーには参加しないで家で待ってるって言ってたんだ」

その言葉には息を呑んだ。
ホドの街は既に戦場と化している。ガルディオス家に居るならばまだ安心   ペールさんはもちろん、ガイの父親のシグムントさんは腕の立つ剣士だ   だが、自宅に一人で居るとなると話は別だ。
ヴァンから「今度妹が生まれるんだ」と嬉しそうに伝えられたのは記憶に新しい。

「・・・ミリアさんのこと探しに行こう」
「本気で言っているのか? 戦争中に人探しなんて無茶苦茶だ」
「無茶苦茶でも探しに行かなかったら、何かあった時に絶対後悔する。だから行こう」
でも、と食い下がるヴァンを押し切る形ではヴァンの家の方向へ駆け出した。
彼の家は街の中心から離れた場所にある。まだキムラスカ軍の手は伸びていないはずだ。
楽観的な考えだと解っていてもそう信じて向かうしかなかった。

「ミリアさん、居た?」
「いや・・・。荒らされた形跡もないし戦争が始まったことに気づいて逃げてくれたのかもしれない」
ヴァンの家に到着した二人は手分けして家の周辺と中を探していた。
幸いにも戦火は遠く、周囲の家にも人の気配はなかったが血や戦いの痕跡は残されていなかった。
しかしファルミリアリカ・サティス・フェンデ   ミリアさんの本名だ   の姿はどこにもない。
身重の体で一人で逃げ延びられる可能性はどれくらいだろう。ガルディオス家を頼っているだろうか。

「もしかしたら・・・」
「どうした、?」
「ねえ、ミリアさんは研究所の場所を知ってる?戦争が始まったことに気づいたならヴァンを探しに行っているかもって思って」
サッとヴァンの顔が青褪めた。それを口にしたの声も震えていたからきっと同じような表情をしている事だろう。
二人は同時に研究所へ向かって駆け出した。

研究所へ近づくという事はすなわち死に向かっている事と同義だと、は、恐らくヴァンも理解していた。超振動装置なるものの起動時間をリセットさせて、そこに繋がれていたヴァンを助け出し逃げてきたばかりだというのに。
もう一度、マルクト軍の研究者に見つかればヴァンは確実に連行される。帯刀しているを見つければ殺そうとしてくるかもしれない。
運良くマルクト軍に見つからなくとも、キムラスカ軍に見つかってしまえば確実に殺すための剣を向けられるだろう。それでも二人はミリアを見つけて行動を共にする事を選んだ。
徐々に大きくなる建物の向こうの方で繰り広げられている激しい譜術の応酬は、幸か不幸か研究所には及んでいないようだった。

前を走っていたヴァンが急に立ち止まったかと思えば木の陰に身を隠した。
慌てて同じように近場に身を隠したは、ヴァンの視線の先を辿り思わず舌を打ちそうになった。
   どこに逃げたんだあいつ!」
「とんだ失態だな! 上に知られる前にさっさと探して連れ戻せっ」
「申し訳ございません・・・!」

マルクトの研究員と軍人の焦ったような、それでいて怒りを含んだ声が遠ざかっていく。
が研究所に忍び込んだ時に見かけた研究員は10人にも満たなかったはずだ。それなのに、ヴァンたった一人を探し出すためにこんなにも多く人間が投入されているなんて。
もう少し隠れるのが遅れていたら確実に見つかっていたであろう距離で交わされた会話に、どうする?という意味を込めてはヴァンを見た。

「研究所の周辺だけでも母さんが居ないかどうか探したい」
「・・・わかった。マルクトに見つからないように気をつけよう」
ミリアさんは第七音素譜術士だったはずだ。被験者となったヴァンが居なくなったのであれば彼女が代わりにされる可能性だってある。
ヴァンも恐らくその事に気づいている。もし彼女が捕まっていれば救い出す事は難しいだろうという事も。
これまで以上に慎重に行動しようと頷きあってからとヴァンは再び捜索を開始した。

敵に見つかれば己の身を守るために剣を抜かなければならない。
今の状況での敵は、キムラスカ兵とヴァンを捕らえようとするマルクト兵と研究員   つまり、人間だ。
(私は人間に対して剣を抜ける? 拳を振るえる? 譜術を放てる?私は、人を殺せるの・・・?)
身体の関節が硬くなるのを、指先が冷えていくのを頭を振って全部気のせいだと思い込む。
左手で胸元に隠した髪飾りを一度だけ強く握り締めた。

   いたぞ! 連れ戻せっ」
怒声が鼓膜を揺らした瞬間、とヴァンは地面に転がされていた。
辛うじて致命傷には至らなかったもののアイシクルレインによって生み出された無数の氷の刃は、二人を貫いていた。
耳障りな甲冑の擦れる音が近づいてくる。
痛みを堪えて起き上がったは、視界の隅で起き上がろうとしているヴァンに駆け寄る。彼の左腕から溢れる血にライフボトルを手荒くかけてアップルグミを口の中に突っ込んだ。

直後、二人の周囲に第二音素が急速に集まっている事に気づいたは、ヴァンの右腕と腰を掴んで力の限りにぶん投げた。反動でよろけたは体を支えるために差し出した右手のひらに、音素を集中させて烈破掌を放つ。
技の勢いと共にの体が吹き飛ばされたおかげで、二人を狙って放たれたグランドダッシャーは誰もいない地面を抉っていた。
受け身を取って立ち上がったは、無理をさせた右腕を擦りながら剣を引き抜いて構える。
周囲を取り囲むマルクトの兵士たちを警戒しながら、同じように立ち上がっていたヴァンの元へ後ずさりをする。
とん、と背中が触れ合う。この震えはどちらのものだろう。

「ねえ、ヴァン」
「なんだ、
「・・・人、殺したことある?」
「・・・いいや、今のところ経験はないな」
「そっか、一緒だね。   じゃあさ」
「ああ」
「「二人とも生き残ろう」」

そうして終わりは呆気なくやってくる。