9.ひとつ分の陽だまり
来た事のない土地に一人で降り立つのは、これで二回目だ。
どのくらい飛行していたのかは分からなかったが、地面に降り立ったの顔はすっかりと冷えていた。
周囲を見回してみても耳を澄ましてみても、人間の気配を感じる事はなかった。誰も居ない場所へ行きたいという望みは叶えられたようだ。
自分以外の微かな息遣いに振り返る。瀑布に呑まれゆくホドで契約を交わしたドラゴンが、と目線を合わせるように首を下げていた。
「運んでくれてありがとう・・・フィー」
ゆっくりと左手を伸ばし、ドラゴンの鼻先を頬を撫でる。
少しだけ目を見開いた彼はすぐに瞼を閉じ、の手に顔をすり寄せた。
「また、呼べ」
その一言を残し彼 フィーはが握り締めていた指輪へと姿を消した。
輝きを失ったそれを着用していた外套のポケットにしまいかけたところでふと思いとどまり、は右手の薬指にはめる事にした。どんな譜術が施されているのかは分からなかったが、ヴァネットの形見であるその指輪はの指にちょうど良く収まった。
気がつけば日は傾き、空に昇る
は適当な木の根元に腰を下ろすと、剣を鞘から抜いた。拭いきれていない血の痕が刀身を斑に鈍く光らせている。
白に覆われた左眼は疼く事なく沈黙している。だからこそ、刀身の向こうに見えた人の姿をは驚く事なく受け入れた。
「死んじゃった」
頭上から降ってくる声に抑揚は感じられなかった。
は一度目を伏せてから剣を鞘へ戻し、左に置く。小さく息を吐き出しては顔を上げた。
「あなたの中に在る
逆光のせいか、声の主である少女の表情が見えない。
相変わらず青白い光を纏う少女はゆっくりとの前に膝をつく。両手をへ差し出し、頬を包み込んだ。
「でもね第七音素と違って他人を癒す力はないの。ただ、壊すだけ」
口元に笑みをたたえた少女の瞳には少し歪んだの顔が映っている。
「 なんであなたが悲しい顔をするの」
も同じように少女の頬を両手で包み込む。温かなぬくもりにそぐわない一筋の跡は酷く冷たい気がした。
「
「 泣く?わたしが?何のために?」
首を傾げて唇に弧を描いた少女は、その言葉に反して目から雫をこぼし続けた。
の指先を手を冷たい液体が濡らしていく。堪えきれずは少女を抱き締めた。
「ごめん・・・弱くてごめんね・・・」
口をついて出たのは兄にもらった大切な名前だった。
と呼ばれた少女はびくりと肩を揺らし、腕を突っ張っての身体を引き離そうとした。それでもはを抱き締める腕の力を緩めなかった。
彼女の強い抵抗もすぐになくなり、指先に感じていた冷たさが肩にじわりと広がる。
やがてはの肩から顔を上げ、もそれを遮らなかった。
再び少女の瞳がを見据える。
「って、なに」
「お兄ちゃんが私につけてくれた名前。・・・だからあなたにあげる」
「・・・変なヒト」
涙の跡を残したまま、は首を傾げて少し笑んだ。その表情には胸に広がる安堵に息を吐き、それから俯いて両手を握り締めた。
未来を視る力のある音素。ただ壊すだけの音素。目の前に存在する と名付けた少女。
私の中に宿る意思のある音素。制御出来なければ 。
「」
顔を上げて口にした名前は、が思うよりも強い音になった。
は何も言わずを見つめ返した。
「
「わたしはあなたに依存しなければ生きられないって言ったの、覚えていないの?」
「覚えてるよ。それでも私はと一緒に生きていきたい」
「・・・可笑しなヒト」
長い髪を耳にかけて少し呆れたように吐き出したため息に、拒絶の色は感じられなかった。
は数秒の間考え込むように目を伏せて、徐にの手を取って立ち上がった。
少女の右手がの胸元に隠された髪飾りに触れる。意図を図りかねたが抵抗せずにいると、少女の顔が近づきこつんと額が合わさった。
「・・・ありがと」
小さく残された音に瞬きをするとの姿は既に消えていた。
包帯の上からそっと左眼に触れると規則正しい脈が返ってきた。
海に沈む太陽が最期の力を振り絞って真っ赤に燃え盛るのをは静かに見つめていた。
もうすぐ、夜が始まる。