13.紅と黒の衝突
ND2008 シルフデーカン・シャドウ・50の日
「ノワール奏長、お迎えに上がりました」
「ああ、ご苦労様」
「グランツ謡手は先に港の方へ向かわれました」
「ベルケンド視察の報告書が上がっていないようだけど」
「はい、こちらに」
書式は正しい。内容は及第点。追加で資料が必要になりそうだから用意しておくように。
短く指示を飛ばして譜陣に足を踏み入れる。
「お気をつけて、ノワール奏長」
「留守中よろしく頼むよ、ヨナス」
敬礼に見送られ、は教団を後にした。
ダアト港はいつにも増して人が集まっていた。どうやら定期船が複数着港しているようだ。
いつも通り外套のフードを目深に被り、彼の人を探す。
「来たか」
「時間よりも早く来たはずだけど、相変わらず早いね」
「先にやることがあったからな」
伸ばしている髪の毛を一つに束ね、最近見栄えの良くなってきた顎髭を蓄えたヴァンが薄く微笑む。
手渡された乗船券と旅券で行き先を確認し、二人は船へと向かった。
数日間の船旅の間には持参していた書類仕事を粗方終わらせていた。
ヴァンもヴァンで仕事を積み上げているらしく、朝夕の二回顔を合わせば良い方だった。
武器の手入れも終わらせてしまったは、手荷物の中に仕舞いっぱなしの仮面を取り出した。
「2年前までは、これを被ってない時間の方が長かったんだけどな」
使い始めて約5年。少々くたびれてきたようにも見える黒猫の仮面を複雑な気持ちのまま磨き上げる。
恐らくはまだこのまま使い続けられるだろうが、本格的な成長期が来る前に仮面の新調も視野に入れなくてはならない。
「その時にはもっと自由に出歩けるようになってればいいんだけど」
導師エベノスからの指示命令を受けてから2年、神託の盾騎士団の戦力の底上げに貢献してきたとは思う。
士官学校を卒業した兵士見習いを追加の実地訓練に放り込み、ある程度の水準にまで達したらヴァンとが属する部隊に配属させ、任務をいくつか経験させた後に再配属させてる役目を担ってきた。
キムラスカとマルクトの小競り合いは未だに続いているせいで、黒猫の名も少しずつ広まってきていると聞く。
「神託の盾を名乗る以上、顔も名前も出したくなかったのに・・・ヴァンのばーか」
≪主、独り言の邪魔をして悪いが依頼だ≫
≪言葉に棘・・・ありがとう≫
右手の薬指にはめられた指輪を介してフィーから声がかかる。
窓の外にで行儀よく待っている鳩を室内に招き入れ、足に括りつけられた手紙を引き取る。
餌と水を与えながら内容を確認する。机に積んでいた紙に返事を書いて再度鳩の足に括りつけた。
≪依頼をこなす暇などあるのか?≫
≪うーん、どうかな。まあ最悪でも睡眠時間を削ればなんとかなると思うけど≫
休息を終えた鳩が飛び立つのを見送りながら答えれば、響いたのは小さな嘆息。
遠くに山のようにそびえ立つ街が見えた。数時間もすれば下船する事になるだろう。
は窓を閉め、荷物をまとめ始めた。
キムラスカ・ランバルディア王国の首都、光の王都バチカル。
数日にも及ぶ船旅から解放されたは軽く伸びをしながらヴァンの後に続く。
バチカルを訪れたのは初めてだ。は港と街が繋がっている事と、この街にしかないといわれる音機関・天空客車に心を躍らせていた。
文献によれば、バチカルはその昔巨大な譜石が落下した時に出来た大きな窪みに街を建設したといわれている。
内壁が自然の城壁となり街の一方は崖、その下には海が広がっている事から有事の際も攻めにくい要塞都市となっている。
身分の制度をそのまま具現化したような三角形の街の構造によって、一般市民の暮らす城下町からは貴族たちの居住区を見る事は叶わない。
「バチカルは初めてだったか」
「ん・・・うん、そうだね。これは首が痛くなるわ」
「ふっ、そうか」
天空客車に揺られ街の外へ続く階層に出るまでの数分の間、はじっと上を見上げていた。
奏長に与えられた制服を身にまとい、仮面をつけず外套のフードも被らず、会話をしている事が何故か妙におかしくヴァンは小さく笑った。
つい笑ってしまった事にか、は不服そうな視線を寄越してくる。ヴァンはそれを軽くいなして次の天空客車へと足を向けた。
階層が上がるにつれて乗客も減っていく。
とうとう二人きりになったところでヴァンは口を開いた。
「既に伝えてある通りだが、私は一年ほど前からファブレ公爵家の一人息子、ルークの剣術指導を請け負っている」
「今後も指導は続けていくつもりだが、いずれ神託の盾騎士団としての任務で手が回らなくなることも増えるだろう。そうなった時、に私の代わりを任せるつもりでいる」
「今回はファブレ公爵からの信頼を得ることが目的だ。これからの顔合わせではもちろんだが、数週間の滞在中に必ず気に入られろ」
無茶苦茶言うなよ。口にも顔にも出さないままは心の中で吐き捨てた。
神託の盾騎士団としての任務で、上司であるヴァンの命なのだから背くという選択肢は持っていない。
剣術指導の方はまだしも、何一つ面識も所縁もない人間に気に入られろとは。
そもそも神託の盾騎士団に「」という人間は存在しない。ファミリーネームも名乗っていない。
ノワールという名前に仮面の下の素顔を結びつけられたくはないのだが。
「ファブレ公爵にはノワールという名を通してある。今更と名乗っても教団にも神託の盾にもない名前だとすぐにバレるだろうからな」
素顔の方は我慢してくれと、この任務の話をされた時と同じ答えが返ってくる。
文句は言った。聞き入れてもらえなかったから、仕方なく納得してみたが。
「改めて言い聞かせられるのはなんか腑に落ちない・・・」
「ふふっ、そうむくれるな。 期待しているぞ、・・・いや、ノワールと呼ぶべきか」
「どっちでもいいよ、もう」
友人兼上司にため息を吐きながら、は羽織っていた外套をカバンの中に突っ込んだ。
最上階の天空客車を下り、正面にそびえるバチカル城を横目で見ながら左隣に位置するこれまた巨大な屋敷に足を向ける。
キムラスカ・ランバルディア王家と姻戚関係を持つファブレ公爵邸。確か、ファブレ公爵夫人がインゴベルト六世陛下の妹だったはずだ。
ヴァンは入り口を警備する兵士に軽く会釈をし、慣れた様子で玄関を潜る。後に続いたはエントランスの広さに一瞬面食らったものの、響いた声に意識を向け直す。
「グランツ謡手、お待ちしておりました。応接室へご案内致します と、そちらは」
「私の部下のノワールです。本日は公爵、奥方様、ルーク様に紹介をと」
「神託の盾騎士団のノワール奏長でございます。以後、よろしくお願い致します」
が頭を下げると、小奇麗なスーツに身を包んだ男は「ああ」という顔をした。
「ファブレ公爵邸に仕えております、執事のラムダスと申します」
ラムダスと名乗った男は軽く会釈をしたのち、応接室へ案内してくれた。
ノックをし来客を告げた後、そのまま下がる。
ヴァンはドアノブに手をかけ、ちらりとこちらに視線を寄越した後、扉を押し開いた。
縦に長く横にも広いその応接室の最奥に、深紅の髪を後ろへ流した恰幅の良い男が座っていた。
「公爵、奥方様、お久しぶりでございます。ご壮健そうで何よりでございます」
「グランツ謡手、よくぞ参った。今日は神託の盾騎士団の部下を連れているそうだな」
「はい。こちらが部下のノワールです。 ノワール」
「お初お目にかかります、ファブレ公爵閣下、奥方様。神託の盾騎士団第五師団所属ノワール奏長でございます。この度は謁見の機会を賜り恐悦至極に存じます」
恭しく頭を垂れ、ゆっくりとした動作で向き直る。
ファブレ公爵は一つ頷いた後、口を開いた。
「クリムゾン・ヘアツォーク・フォン・ファブレだ。君のことはグランツ謡手から聞いている。ルークの良き練習相手になることを期待している」
「ノワール、と言いましたね。私はシュザンヌ・フォン・ファブレ、ルークの母です。息子をどうかよろしくお願いしますね」
「はい。ご期待に沿えるよう尽力致します」
ファブレ夫妻との対面は数分で終わった。
次の用があると足早に屋敷を後にした公爵と、生まれつき体が弱いというシュザンヌ様が寝室に戻ったためだ。
得体の知れない人間を屋敷に入れるためとはいえ、わずか数分でも時間を割かれた事にヴァンの信頼の高さが窺えた。
気に入られたかどうかは別として挨拶を終えたは、ヴァンと共に中庭へ向かった。
どこもかしこも高級品で彩られる屋敷は、中庭までも良く手入れされており気持ちの良い場所だった。
四方に伸びる小道の北側にこの屋敷のサイズにしてはやや小ぶりに感じられる部屋がぽつんと置かれている。
ヴァンの足はそちらへ向かっているようで、も後に続く。
ふと、視界の隅に映った花に視線を向けかけたところで、扉の開く音がした。
「ヴァン
「ああ、今しがたお父上への挨拶が終わったところだ」
「ではもう稽古をつけていただけますか? 前回教わったあの技なのですが 」
「気が逸るのはわかるが、少し待てルーク。その前に私の部下を紹介させてくれないか」
紅い髪、翡翠の目、少し高い声、使い込まれた木刀、細い体。
ヴァンに向けていた人懐っこい尊敬の眼差しと幼さを消し、少し不愉快そうにこちらを睨みつけてくる生意気そうな瞳と視線が合った。
「お初お目にかかります、ルーク様。神託の盾騎士団第五師団所属ノワール奏長でございます。どうぞお見知り置きください」
「・・・ルーク・フォン・ファブレだ」
名乗られたから名乗り返す、ただそれだけだ。とでも言わんばかりの態度には少々面食らった。
これが公爵子息のスタンダードな態度?
身近に居た貴族二人の態度とあまりの違いに首を捻りそうになるも、その謎はすぐに解けた。
「ヴァン師匠、稽古の準備は整っています。いつでもいけます」
から視線を外したルークはそれはもう嬉しそうに、そして真剣な表情で剣を握り締める。
ヴァンは一度こちらを見た後、持参した木刀を一本取り出しへと投げ渡す。それは修練場で行う訓練でがいつも使っている木刀だった。
なんで置いてきたものを持って来ているのかと聞くよりも先に、ヴァンはルークへ声をかけた。
「ルーク、自主練習は欠かしていないな?」
「はい、もちろんです」
「では、私の部下を相手にその成果を見せてくれないか」
「 ! 何故ですか、ヴァン師匠? 俺はヴァン師匠と稽古がしたいんです!」
(この子息はヴァンのことを信頼、尊敬していて、ヴァン以外に剣術を教わる気も稽古相手になってもらうつもりもないわけか)
屋敷で公爵子息がどんな生活を送っているのか知らないし興味もないが、きっと剣術の稽古はとても楽しいのだろう。だからこそ自分の大切な時間にヴァン以外の人間が 例え彼の部下だとしても 入ってくるのが許せないんだろう。
(そりゃ私に対して当たりが強くなるのも納得・・・)
ふぅ、と短く息を吐いて空を仰ぐ。薄い雲がゆっくりと譜石の下を通過していった。
「 父上の許可があったとしても、俺はあんな片方しか目がない弱そうなやつと手合わせなんてしたくありません。それよりももっとヴァン師匠と」
「弱そうなやつ?」
「ノワール、落ち着け」
「今、私のことを弱そうなやつとおっしゃいましたか」
ヴァンが片手での行く手を阻む。
それに逆らう事はせずその場で同じ言葉を繰り返せば、驚いた表情はすぐさま見下すようなものに変わる。
「ああ、弱そうだと思ったから弱そうだと言ったんだ。それの何が悪い?」
「・・・そうですね、相手の実力を見極める力なんて、公爵家のご子息様には無用の長物なのでしょう。所詮、安全な世界で棒きれ振り回しているだけのお遊戯で事足りるのですから。何も奪うもののない剣はさぞ強く幸せなのでしょうね」
「 貴様ッ!!」
次の瞬間、ルークは尻もちをついて、は頭を叩かれていた。
後頭部を擦りながらため息の後に向けられた視線は見なかった振りをして、一歩下がる。
ルークは敬愛する師匠に軽く吹き飛ばされた事に、衝撃と尊敬の入り混じった目を向けていた。
「ルークと手合わせして認めさせればいいんでしょう。今後のために」
「ああ、そうだ。だが挑発しすぎだ、大人げない。気に入られろとも言っただろう」
「ご子息様もそこに含まれてたの? 知らなかった」
「ノワール・・・頼むぞ」
「わかってるよ」
互いにだけ聞こえる声量で 二人とも
話していると、視界の隅にあった紅色が立ち上がるのが見えた。
尻を叩き、落とした木刀を拾ってつかつかと歩いていく。
「ヴァン師匠の頼みなら仕方ない。おまえが俺より弱いってことわからせてやる!」
「ヴァンの頼みに駄々こねてたの、もう忘れたわけ?」
「いいからさっさと手合わせして来てくれ」
偉そうな物言いに小さく呟けば、ヴァンは呆れてため息を吐いた。
しっしっと追い払われるように振られた手に肩を竦めながら、ルークと十歩ほどの距離で相対する。
左手で握った木刀を二、三回振り下ろす。切っ先を下に向けて重心は少しだけ下に。
対するルークは正面で構えた木刀の奥から怪訝な目でこちらを見た。
「おい、さっさと構えろ」
「これが私の構えです。お気遣いなく」
「 チッ、なめやがって!」
言うが早いかまっすぐ突進してきたルークの剣は、宙を舞った後、高い音を立てて転がった。