16.二つの顔
ND2010 ノームリデーカン・ノーム・55の日
ローレライ教団総本山ダアト
ノックした扉から反応はない。中から聞こえる作業の音と表にかけられた悪趣味なプレートから、は訪問する部屋を間違えていない事を確認する。
ガチャガチャとノブを動かしても開かないが、術での施錠はされていない。は懐から小物金属を取り出した。
「戻ったんなら報告するのが常識なんだと思っていたけど」
「うわわっ! お、おおお驚かせないでくださいよ、ノワール!」
「作業終わりに声かけてあげたんだ。感謝してよね」
所狭しと積み上げられた本、崩れ落ちそうな音機関の部品、数字や文字列が書きなぐられた紙の束。足の踏み場もないこの部屋の主は空中を浮遊する譜業椅子で移動しているから床の惨状になど興味がないようだ。
約2年前、ディストが神託の盾に入ってからは彼の部屋や実験室に出入りする事が増えていた。来る度に自分の足の踏み場を作ってもすぐに物で埋め尽くされるので最近は土足で踏みつぶす事にしている。
「それで、この私に何の用ですか? 私は今日も忙しいので手短にお願いしますよ」
「ベルケンドからの帰還報告もしてないやつが偉そうにするな。さっさと報告書書いて、出して、今すぐ」
「ふん、そんな面倒くさい形だけの手続きに私が割く時間などありはしませんよ」
「うるさい、規則だ。上官の命令に背くな。神託の盾騎士団の任務の一環としてベルケンドに行った以上、報告書は出せ」
「ムキーーーッ! 偉そうに!!」
の階級は謡手で、ディストの階級は響長だ。どう低く見積もってもの方が偉い上に上官としての職務を全うしている時点で責められるいわれなどない。
わざわざ説明するのも面倒くさい、とはディストの座る椅子の背を蹴飛ばすに止めた。
ぶつぶつと絶えない愚痴をぼやきながらペンを動かす事約一時間、ディストから受け取った報告書は必要以上の分厚さだった。
パラパラとめくりながら書式や内容をざっと確認していく。ため息の出る思いだった。
(この報告書、誰が読むと思って書いたんだろう・・・字が汚いのは可読可能な範疇だからいいとしても内容が専門的すぎるし数式混じってるし考察入ってるし。これじゃあ報告書じゃなくて短い論文なんだけど)
要約して書き直してと伝えようかと思ったが、ディストは既に何かを探して部屋をうろうろしている。
また喚かれるのは勘弁願いたい。
は諦めて、部屋の隅に追いやられたソファに腰かけディストの報告書を読み始めた。
「ディスト。これ今日の質問事項、後で来るから目通しておいて」
「 わぷっ! もう! なんなのです、いつもいつもいつも! 顔に紙の束を押しつけるのは止めなさい!!」
「こうでもしないと読まないでしょ。じゃあよろしく」
後ろで騒ぐ声は無視して扉を閉める。そのまま報告書を読み返しながらはヴァンの元へと向かった。
「誕生日? 今日が? ディストの?」
「ああ、そうらしい」
「・・・なんでそんな要らない情報を」
「師匠なのだろう?」
そう言って実に楽しそうに笑うヴァンに、仮面を外していたは酷く嫌そうな顔をした。
ヴァンはディストから上がってきた報告書をパラパラとめくり、後で読む事にしたのかそのまま机の上に置き。別件にかかわる資料をに手渡して、いくつかの指示を出した。
「師弟関係と言っても私に足りない知識を補うためだけの関係だから。忠誠なんて微塵もないから」
「尊敬はしているのだろう? ディストがダアトにいる間中、頻繁に部屋を行き来しているではないか」
「利用価値があると思っているだけだよ。ヴァンと同じ」
この話はもう終わり、とは仮面を付け直して席を立つ。
ヴァンの顔が一瞬険しくなったのは見て見ぬ振りをして、形式的な一礼の後、はヴァンに背を向けた。
「ノワール」
「・・・何?」
「近々、ベルケンドの第一音機関研究所に向かう。準備をしておいてくれ」
「 わかった」
それじゃ、と今度こそは部屋を出た。
人気のない廊下に軍靴が響く。取り出した懐中時計は次の訓練まであまり時間がない事を示していた。
ヴァンのところで水でも貰えば良かったと思いながら、は小走りで修練場へと向かった。
本日二度目のディストの部屋の前で、はサンドイッチとフルーツをトレーに乗せたまま、部屋の鍵を開ける。
独り言を呟きながら本を開き、紙に走り書きをし、何かしらの論文を漁り、また紙にミミズのような文字を書き散らすいつも通りのディストがそこにいた。
「 ふう」
「一段落したの」
「!? だからっ、なんであなたはいつも勝手に部屋にいるのですか! 声くらい掛けなさい! それより人の部屋に勝手に入るのは止めなさいと何度言ったらわかるのです!」
「ノックした。声も掛けた。理解する気ないから無駄な依頼は止めてくれる」
部屋の隅のソファでフォミクリー原論の本を読んでいたは、顔も上げずにそう告げる。既に一度読んだ本だが、他の書籍や論文を読んだ後だからか内容が頭に入ってきやすい。
読み進める本に影が落ちる。何事かと見上げるとディストがすぐそこにいた。
苦々しい表情の男には遠慮なくため息を吐いた。
「・・・先ほど渡された質問事項を読みました」
「そう、ありがとう。じゃあその前にそれ食べていいよ」
「まず私の質問に答えなさい。あなたは一体何をしようと・・・・・・食べる?」
「ヴァンから、今日が誕生日だって聞いた。奢り。好き嫌い知らないから適当に選んだけど」
ぽかんとした表情のディストに食堂から持ってきたトレーを差し出す。なかなか受け取ろうとしない、というより機能停止したらしい彼の膝の上にそれを押しつけて、は再度本に目を落とした。
室内にはが本をめくる音しか響かない。そんな時間が10ページも過ぎたところでは再び顔を上げた。
「ねえ、聞いてんの? それとも死んだ?」
「・・・・・・」
「ディスト!」
「 っ、ぅわあああ! は、はいいぃぃっ!!」
何をそんなに驚く事があるのか。声を裏返しながら椅子の上で器用に気をつけの姿勢を取るディストに、は深々とため息を吐いた。
おろおろそわそわしながら何度も眼鏡を直す彼が口を開くまで、仮面越しに軽く睨みつけたままは黙って待っていた。
「き、今日が私の・・・た、たた誕生日って、だ、誰から聞いたのです」
「ヴァン」
「こ、これはなんなのです」
「サンドイッチとフルーツ」
「そういう意味ではありません! こ、ここれは、そ、そそその」
「奢り。 ああ、何? 誕生日プレゼントだって言わなきゃわかんないの?」
ソファの肘置きに右腕を乗せ、頬杖を吐きながらは呆れた声を出す。
途端に色白なディストの肌が耳まで真っ赤に染まり、半回転した譜業椅子は奥の部屋へと消えていった。
予想以上の反応には一瞬呆気に取られ、そして小さく噴き出した。
まあいい。今日の予定は終わっているし、作業の音が聞こえ始めるまでは読書をしていよう。
ディストが戻ってきたら、コンタミネーションを人体に施す方法、初期に用いられていた譜術フォミクリーと、譜陣を人体に刻む方法と現時点で確認されている術式について聞かなくては。
ND2010 ウンディーネリデーカン・ローレライ・3の日
ダアトの中心街から少し離れた路地に広がる居住区域。私服姿のは行き交う住人たちにぶつからないよう、しかしなるべく早足で歩いていた。
目的地に辿り着いたは建物の裏側に回り、取り出した鍵で開錠する。中にいた一人が振り返りの姿を認めるとゆっくりと会釈をした。
「様、わざわざお呼び立てして申し訳ございません」
「状況は?」
「思わしくありません。調査不足か、想定より集団の統率が取れており数も多いとのことです。ケガ人は複数ですがいずれも命に別状はございません」
「・・・そう、わかった」
生活の中心をダアトに据えてから早4年。ケセドニアで始めた「代理屋」の支部をここで開いたのは去年の事だ。
今はを除いた5人が代理屋として依頼を受けて活動をしている。今回は居住区に近い森で繁殖した魔物の処理に困っている人たちからの相談だった。
「ナイトオウルとナイトレイドの討伐だったね。じゃあ行ってくる」
「様、まさかお一人で? 私も」
「アキュレはいつも通り依頼の割り振りと情報収集で。大丈夫、討伐なら一人の方がやり易い」
「・・・かしこまりました。どうかお気をつけて」
依頼内容の要点だけまとめた紙を懐に入れて、は踵を返した。
今日もよく晴れている。ザレッホ火山の影響で温暖な気候に恵まれたバダミヤ大陸には海水浴も出来る浜辺があるらしく、こんな日はきっと人々で賑わうのだろう。
ふと、産まれてこの方海に入った事がない事に気づく。ホドの方が海水浴スポットなんて山ほどあったのに。
「まあ人に見せられるような体じゃないしね。それよりさっさと終わらせよ」
周囲に誰も居ない事を確認して、外套のフードを被り黒猫の面を装着する。
代理屋として活動する時は人前で仮面を付ける事はしなかった。神託の盾騎士団のノワールと結びつけられたくはないからだ。
だからこそ剣を振るう必要のある依頼が回ってきた時は一人でと決めていた。
いつか、ダアト支部のアキュレやケセドニア本部のガルシアには、が神託の盾のノワールである事を告げるのかもしれないが、それは今ではない。
近頃、やけに物騒な二つ名が囁かれ始めたせいで言い難さは増しているが。
代理屋の看板は一人で掲げて始めた事だ。一人に戻っても、きっと支障はない。
「 おかえりなさいませ、様」
「うん。依頼受けたの誰だっけ? 完了報告に行ってきて」
「かしこまりました。すぐに取り掛かります。お手を煩わせてしまい申し訳ございません」
「いや、これが私の仕事だから。今度また稽古しに来ると伝えておいて」
約二時間をかけて討伐の依頼を終えたは、再び代理屋の裏口へと戻っていた。
代理屋の仕事は多岐に渡る。家の掃除、家畜の世話、行方不明のペット探しに始まり、交易品探し、傭兵、討伐、情報収集まで正当な対価が支払われればなんでも請け負う。
依頼内容の難易度に合わせてダアト支部ではアキュレが、ケセドニア本部ではガルシアが所属メンバーに仕事を割り振り、彼らでは手に負えそうにないものや手に負えなかったものがの元に流れてくる仕組みになっていた。
対価のほとんどはお金での支払いだが、お金での支払いが困難な人たちには彼らにとって価値のある物を貰っている。
元々はがケセドニアで似たような事で生計を立てていた人の真似事で始めた仕事だ。お金だけに執着するつもりはなかったし、貧しいからこそ依頼に来る人たちを蔑ろにするつもりもなかった。
そして何より、どんな些細な依頼でも相談だけであっても秘密は絶対に守る。名前も知られていない、何の力もない子どもが生きていくには依頼人からの信頼を勝ち取るしかなかったからだ。
「様、ご依頼いただいておりましたボトルとグミの元の材料と成分表でございます」
「ありがとう、思っていたより早かったね。とても助かる」
「とんでもないことですわ。 今回のセントビナーでのご報告ですが」
第七音素による治癒術の恩恵を受ける事が出来ないにとって、各種のグミとボトルは正に命綱だった。特に傷口にかけても飲んでも使えるライフボトルはなくてはならないもので。
外出用の外套にもいくつか仕込んでいるが、もっと高効果を望めるものを開発するために薬品の一大生産地であるセントビナーへと向かってもらったのだった。
本当なら自分で現地に行って採取をして、思う存分研究をしたい。
けれど未だに としてもノワールとしても、マルクト領へ足を踏み入れる事への躊躇いは消えずにいた。