18.それは確かに祝福だった

ND2011 ウンディーネデーカン・ノーム・4の日

自室で昼食を食べ終え、人波が捌けた時間を見計らって食堂へ食器を返却した帰り道。
珍しく代理屋としての依頼も神託の盾騎士団としての仕事もない休日をどう有意義に過ごそうかと嬉しい悩みを抱えていたその日の平穏な時間は、聞き慣れた声の主によって唐突に奪われる事になる。

「ノワールッ!」
「いっ・・・イオン君、突撃は控えめにと」
「あのねっ、ぼくね! ノワールに報告があってね! あ、あとお願いがあって!」
「わかった。わかったから一旦離れてくれる? これだと歩けないよ」

駆け寄ってくる足音の方に体を向けるより先にの背中に突進してきたイオン君は、ここ最近では珍しく随分とご機嫌なようで。の背中から離れた後も右手を引いて歩き出した。
何処に連れていかれるの後思えば招かれたのは彼の自室で、促されるまま座れば目の前に二人分の紅茶が出される。何故か隣に腰かけてきたイオン君は紅茶に口をつけた後、仮面をつけたままのの顔を覗き込んで目を輝かせながら口を開いた。

「あのね! まだみんなには内緒なんだけど、ぼく、正式に導師になることが決まったんだ!」
  おめでとう、イオン君。即位の儀・・・であってるかわからないけど、祝典はいつになるか決まっているの?」
「うん。ぼくの誕生日だから、イフリートリデーカン・イフリート・18の日だよ。それでね、ノワールにお願いがあるんだけど叶えてくれる?」

二つ返事で了承しそうになったのをぐっと堪えてイオン君に先を促す。それでも、叶えてくれる? 以外の言葉を発しないから、数分の葛藤の後、いいよと答えてしまったのだった。
それが過ちだった。

「導師の交代っていう 秘預言(クローズドスコア) クラスの最重要機密事項をさ、私に教えてきた時点で嫌な予感はあったんだよ」
「そうか」
「それでもあんなキラキラした目で見つめられたら断れないじゃない? ああ見えてイオン君って頑固だし、決めたこと覆さないし」
「そのようだな」
「だからってたった120日で持ったことすらない楽器で祝典の曲を演奏するなんて無理だと思わない?!」
「よし、休憩は終わりだ。始めるぞ」

導師エベノスが退き、新たに導師イオンが誕生するその日に執り行われる祝典で奏でられる曲は歴代生演奏なのだという。
それを知ったイオン君の思いつきにより「お祝い」と称した無茶を承諾してしまったが巻き込んだのは、他でもないヴァンだった。ついでにディストも。
当然の事ながら楽器に触った事もなければ楽譜も読めないがメロディも詞も知っている音楽と言えば、エミリアが歌っていた譜歌だけだ。
そうして任務の合間に始まった特訓は、にとって今までこなしてきたどんな任務よりも困難だった。

ND2011 イフリートリデーカン・シルフ・12の日

は楽器を手にローレライ教団の地下室にいた。同じ空間にはヴァンとディストと他数名。何度か顔を合わせて演奏の練習をしているが、戦闘要員ではない彼らと交わす会話は最低限だった。
にまつわる噂話と神託の盾騎士団での功績が自分と他人を隔てている事は知っていたが、その溝を埋めるためにが時間を割く事はなく。よって、共に音楽を奏でる仲間という空気もそうなるための歩み寄りも皆無だった。
それでもこの演奏の目的は、新導師就任の祝典という絶対に粗相があってはならない儀式のためであるという共通認識は一致している。それだけで充分だ。

「この多忙な私にわざわざ時間を取らせてまで新しい譜業を造らせたのですから、失敗など絶対に許しませんよ!」
「うるさい、黙って。大人しく手だけ動かしていられないの?」
「ムキーーーッ! 人に協力を仰いでおいて偉そうにッ!!」

腕も頭も良いくせに口を開くと騒がしくて面倒くさいディストに投げつける様にため息を吐けば、タイミングよくピアノの音が響いた。その音にはディストに対する文句を止めて、既に調弦を終えたヴァイオリンの音を再度確かめる。
各々が調律を終え指揮者へと視線を向ける。一拍の後、タクトが空を切る音が響いた。

「疲れた・・・」
「明日の実地演習に遅れるなよ、ノワール」
「わかってる。遅れないよ」

無事に祝典用の収録を終えた直後の素直な感想に、当然の事ながら労わりの言葉は降ってこない。神託の盾騎士団の仕事や任務に当てる時間を削る日々は今日で終わりだが、先延ばしにする事になったそれらはお行儀良くとヴァンの帰りを待っている。
互いに疲れた顔で  といってもは黒猫の面をつけたままだったからヴァンからは見えていないだろうが  執務室兼自室への道を行く。
は今日はもう仕事をしないと決めていた。ついでに楽器も触らず、食事をして本を読んで武器の手入れをして眠りたい。
ヴァンと別れて、自室まであと階段一つ分というところでは後ろを振り返る。廊下をかける少年に思わず頬が引き攣った。

「ノワール! 今日が録音の日だったんだって?」
「うん。終わったから部屋に戻るところ。イオン君はこの時間、勉強しているはずだと思ったけど」
「今日のノルマはもう終わった! ねえ、ノワール」
「わかった。わかったけど、せめて明日にしてくれないかな」

どうやら私はイオン君を随分と甘やかしてしまったらしい。は心の中で盛大にため息を吐いた。
しかしながら、目の前に行儀良く座る次期導師の期待に満ちた眼差しに応えない訳にはいかない。いくつかの音を鳴らし調弦を済ませ、弦を持った手首を振る。

「一回だけだからね」
「うん!」
いつも返事だけはいいんだよねと、口に出す事はきっとない。
一度、ゆっくりと深呼吸をし、構えを取る。先刻の演奏風景を、指揮者を脳裏に描いて、はヴァイオリンの弓を引いた。

ND2011 イフリートリデーカン・イフリート・18の日

この世界に住む人間は、預言に記された未来であるならば誰が死のうが誰が生きようがどうでもいいらしい。
導師エベノスの崩御が公にされた翌日、新たな導師が誕生した。第七音素がもたらす預言を遵守するために作られたローレライ教団の最高指導者、 導師(フォンマスター) の地位に座したのは、預言で定められた通りイオン君だった。
前導師が亡くなったにも拘らず、悲しみに暮れる者はあまり多くないらしい。

導師継承式が粛々と行われていくのをは教団関係者以外は入れない上階の更に上から見下ろしていた。
いつでもどこでも黒猫の仮面をつけているがローレライ教団の信者が大勢集まる場所に顔を出すなど有り得ない。そうしたいと思った事はないが、するなという命令も受けていた。
祝典に参加しているのはほとんどが上層部の人間だから、その中に見知った顔が一人紛れているのは何とも不思議な気分だ。

「探したぞ、ノワール」
「探される用事なんてあったかな、アッシュ」
「そんなところでぼさっとしている暇があるなら俺の稽古に付き合え」
「これでも仕事中なんだけど。アッシュこそ、祝典に出席しているヴァン師匠の雄姿を拝まなくて良いの?」
「俺には関係ないことだ。さっさと稽古の相手をしろ」
「だってさ、ラルゴ。付き合ってやって」

左隣に声を掛けると黒の巨体が窮屈そうに立ち上がる。ラルゴもと同じく上層階からの監視の任に当たっていたが、真面目な彼にしては珍しくずっと目を伏せていたのだ。祝典に欠片も興味を持っていない事がよく分かる。
アッシュは文句を言おうとしたようだが、と自分との間にいたアリエッタの怯えたような顔を見て、短く舌を打つに止め踵を返した。
結局ここにいるのは神託の盾騎士団でも厄介扱いされている人間ばかりなのだ。ディストはそもそも祝典がある事すら知らないだろうが。

「あっ、イオン様・・・!」
アリエッタの小さな声に目線を遥か下に向ける。見慣れた服ではなく、導師のための法衣をまとい、音叉を模した杖を手に、胸元に同じく金に輝く音叉を下げ、先日まで導師エベノスのみが座る事を許されていたその場所に座した。
新たな導師の誕生に歓声が上がる。およそ8歳とは思えない大人びた顔つきで群衆を見つめる彼が、ふと何かを探すように首を上に巡らせ、こちらに微笑んだ気がした。

「イオン様! いま、イオン様がアリエッタの方見てくれた・・・!」
「あ、ああ・・・そうだね」
アリエッタが嬉しそうにするものだから、どうやら思い違いではないようだ。特別視力が優れているわけじゃなかったはずだけど、と思ったところで深く考えるのは止めた。一瞬だけ絡んだ視線も今はもう群衆に向けられてる。

そうして長かった祝典はつつがなく幕を閉じる。
アリエッタがイオン君の誕生日を祝いたいと言うので、夕食の前に彼の部屋を訪れる事になる。突然の来訪にもかかわらずイオン君は喜んでくれた。

平穏な日々がいつまでも続けばいいと、二人の笑顔を前に願ってしまう。この教団が、この世界が何に縛られているのかも忘れて。